昭和四十七年 二月八日 朝の御理解
X御理解第七十五節 「人を殺すというが、心で殺すのが重い罪じゃ。それが神の機感にかなわぬ。目に見えて殺すのは、お上があってそれぞれのお仕置きにあうが、心で殺すのは神が見ておるぞ」
随分、人の心を心で殺す、または心で傷つけると言う人たちが沢山あります。それが神の機感に適わぬと。実際に刃物を持ったり何かして、例えば喧嘩沙汰をして、人を殺すというのはそれは重い罪でしょうが、けれどもそれは人間の世界のことであって、そういう人はそういう人で、人間の社会でお仕置きにあうと言う。お仕置きにあえば、それでもう罪はなくなったようなものである。それだけの償いをさせられるわけですから。けれども心で殺すのは誰も知らん。それが重い罪じゃと。ここでは最後に「神が見ておる」と仰せられる。
私は信心生活というものは、私は本当に神様が見ておいでのこと、神様が聞き通しに聞いておって下さる。神様が見通しに見ておられる世界に引き向かせて頂こうとするのが、私は信心させて頂く者の姿勢、心掛けでなからねばならないと思います。
成程神様は姿も見えなければ、声もしませんけれども、そうでないと信心させて頂く値打ちはありません。それを信ずる力が段々強くなってくることが、信心が強くなってくることです。神様は見ておいでじゃなあ、神様は聞き通しに聞きござる。それを実感する、それを実感する生活が信心生活だと思う。
本当に、それこそ人の心が真っ暗になるようなことを平気で言うたり、態度に取ったりする人がありますよ。それこそ相手の心を殺してしまう、相手の心に深傷を負わせる、傷を付ける。そういうことではです、なりません。
そこで今日は、人を殺すとか、傷つけるとかとそういうようなことは勿論あってはならないと思い込ませて頂いて、それを反対にです、傷ついておる人があるなら癒えるような、また心がもう真っ暗になって死んでおる人があるなら、それを生かすような働き、そういう働きをさせて頂けれることが信心なのです。
ですから、そこんところの一線上に出て、人を傷つけたり、人を殺したり、例えば恐ろしいことがありますよね、恨み殺すといったようなことがありますからね。相手を恨み殺
すという、恐ろしいことです。憎む、恨むとか憎むということがどのように神様の機感に適わぬかと言うことが分かります。
そこで、私共がそういう恨み辛みといったようなものが、段々なくなって、いやむしろそれとは反対に有難いというものを頂いて行くということ、それが信心。その有難いということが相手を生かすのである。傷ついている者がいるならば、それによって癒えることが出来るのである。
いわゆる、人が助かって行く、神が見ておるとおっしゃるのですから、例えば殺すのも神様が見てござるなら、生かすのも尚更神様が見ておって下さってあるのですから、どういうことになるかは、結果は明瞭ですから、私共は生かすことのために、生かすことの出来れる氏子にお取り立て願うという願いを持たなければならん。もうそれが信心なのです。憎むとか、恨むとかいうようなものが反対に有難いと分からして頂くということ。そこで、私共が信心の稽古をさして頂いておることの喜びを一杯心に感じさせて頂いての生活。
昨日ちょうど久留米の梅里先生が見えられた。お庭をなさる先生です。昨日の朝丁度、ここの御造営にかかる前に、庭の方が先といったようなことでしょう。委員長の正義さんがお届けをしておりました。今晩梅里先生のお宅に参りますからということであった。そしたら先生が見えましたから、私が正義さんところに電話を掛けさせましたら、丁度帰ったばかりのところで、ならそちらへ参りましょうというので、こちらへ来てもらって、梅里先生の話、打ち合せが出来た。もう夕方のことでしたから、夕食を差し上げまして、帰って頂いたのですけれども。
何と言いましょうかね、何の道でも同じこと、あそこまで極めて行かれますと、もう七十幾歳でしょうか。枯淡と言うのでしょうかね、もう枯淡の味とでも申しましょうか、実に淡々とした心境ですね。そこは観念と言うですかね、そこは違いましても茶の間でございましたから、今年皆さんから頂いておるお茶道具とか、陶器類とか沢山頂いて、所狭しとあそこに一杯に積み重ねておるわけです。先生大変好きですから、二三点見て頂いたのですけど、「これはちっとばかり皆さんに分けてあげなさい」と言われる。梅里先生は非常にないごとなったつと。賞められたりすると、持ってお帰りなさいと言うふうにして、もう欲がないのですね。
こっちは宝物倉、宝物じゃないけど、宝物倉二階をね、そういう頂き物が一杯あるから、もう置き所がない、そこであそこにでも置くごとさしてもらおうと思いよるとに、「そげなこと邪魔になる。沢山の物を好きな人があるなら、もう分けてあげなさい」と言うて言われましたね。
本当に自分自身がやっぱりそうだから言えれることであってね、私はこれは絶対にやりはしません。誰がくれと言うたっちゃ、これはまた私の考え方が違うからです。けれどもそういう欲のないということは本当に素晴らしいこと。私は欲であれを貯めて行こうとは思いませんけれども、そこはもう私の信心なんですけれど、そういうような話を聞かせて
頂いてです、本当に淡々とした素晴らしいことだなあと。言うならば清貧に甘んずるといったようなねタイプの先生です。実に清らかな生き方をしておられます。そういうような心の状態が確かにお庭なんかにも表れてきておる。
その話を致しておりましたら、正義さんがこういうことを言われるですね。今度の寒修行に幾日か御無礼致しました。今度の寒修行でもういよいよここを分からせて頂いたというのは、何日間御無礼しておる間は、もう信心のない者と同じになっておるということ。 なら、正義さんと言う人は皆さんもご承知の通り、ここに只一ヵ月参って来んからと言うて、決して普通の人とは思われない。それは信心のない人達が皆正義さんを評して、「本当に信心しなさるからあの人は違う、あの人は違う」とやはり言われる。それはどこでも、それは聞くことです。いわゆる真面目です。仕事に、すべてのことに忠実です。今度でも、御造営の委員長として、菊栄会の会長として、言うなら合楽の中心的人物でもあります。人格も合楽では立派な人格を持っておる人だと思うです。
ですから、ここに何日間お参りしなかったから、信心のない者と同じとはどういうことかと、私はその時思うたのですけれども。お参りさせて頂いておる、日々御教えを頂いておるということはね、それほど信心が充実しておるということなんです。引っ繰り返して行けばそれはどういうことかと言うとです、本当に教えがその日の血に肉になって行っているということなのです。お参りしただけではいかんのです。話を聞くだけではいかんのです。
私は正義さんのそのことを聞いてから、毎朝お参りさせて頂いて、教えを基にして、言うならば充実した信心生活出来るということを思いました。皆さんどうでしょうか。だから参らなければおられんのです。信心さして頂いて充実した生活をさして頂くということはどういうことであろうか。
久留米の初代石橋松次郎先生、大徳の先生でした。三代金光様に、小倉の桂松平先生、いわゆる師匠に当たられます、金光様に色々お尋ねになった。自分の弟子達のことをお尋ねになられた。金光様が石橋先生のことを評して、「石橋さんこそ真の人でしょうなあ」と。「出過ぎもせず、引っ込み過ぎもせず」とおっしゃった。
正義さんなんか、丁度石橋先生の御信心の若い時にはあんな性格じゃなかったろうかと思います。、正義さんの見たり、生き方を見とって彷彿としてきます。そんなものを感ずる人柄ですね。それは出来ているというのではありません。いよいよ信心が出来て行くことによって、いわゆる大徳を受けて行けれるタイプの方だと感ずるです。
ですから例え、お参りが出来なかっても、朝のお参りが出来なくなってもです、信心のない者に立ち帰ってしまうことはありませんが、お参りをしておることは確かに教えが血肉になって、その日一日が充実した有難い一日であると言う意味だと私は思うです。
だから皆さん、どうでも日々こうして教えを頂いて、昨日もある方がお参りして見えて、寒修行中一杯お参りなられたんです。もう大変死のうか生きろうかと言う程しに、まあいつも遺書を懐に入れておるというような悩みを持っておられた方でした。ある方のお導
きで毎朝参って見えました。そして先生のお話を頂かして頂きよると、その苦しい胸がスキッとすると。けれども、帰って何時間かしよると戻るけれども、その何時間か話を聞いておるだけでも、自分の心は助かるから連れて参ってくれと言うて、丁度一月間お参りになったわけです。その方が言われるのにです、「椛目の先生の言われるのは、あれはねどこまでも一つの理想郷であって、なかなか人間はあげな風にはなれん」とこう言うたと言うて昨日言われるのです。
皆さんはどう思われますか、私が言うておることは本当にそんなに難しいことでしょうか、本気でね、私共が、例えばね、ああしてはならん、こうしてはならん。仏教で言う五戒とか、キリスト教で言うような十戒のような、とても人間では出来まいというような難しいことではないです。
金光教の御信心は、私共がその気になれば誰でも出来るんです。只その気にならんからです。只お話を聞いとるだけ、聞いとる時は何とはなしに心が安まる。帰って何かするとまた元の木阿弥。だから、また朝お参りをする。そういうところからお互い信心にならせて頂くのですけど。
だから「先生の言われることは高度のものであって、とても私共が手の届かんものだ」と言わずに、一言でも良いから、本気でその頂いた教えなら教えをです、その日一日の生活の指針にでもなして頂けるような生き方にならして頂いて、結局おかげを頂かなければです、お参りをさして頂く、御教えを頂く、言わば話を聞いて助かる道とおっしゃるが、「祈念祈祷で助かるのじゃない、話を聞いて助かるのじゃ」とおっしゃる。話を聞いて助かるというのは、聞いておる間でも、有難いというのではなくて、聞いたらそれが自分の血に肉になるから助かるのです。思い方が変わるのです。考え方が変わってくる。行ない全体が変わってくる。それを例えば難しいことではない、もう本当に私共がその気になりさえすれば行じられる、守られる教えなのです。
昨日は和賀心ということについて頂きました。我情我欲を放した心がそのまま和賀心だ、しかもこれは至高のものだと。最高の和賀心だと。私共から我情、私共がああしたいこうしたいというそういう思い、それをどうでもよいという気になること。これが我情を捨てた姿。けれども、お互い願いというものがありますからこそ、願いがありますからこそお参りしよると皆言いますけれども、お願いをするということは御取次を頂いて、頂くということ。
金光様の御信心は、ですから御取次頂いたら、もうここへお任せしなければならん。そして帰る時にはもうお願いしたのであるから、もう親先生任せであり、神様任せであるという心が我情を取った姿なのです。
それが段々稽古させて頂いている間に、我情、あああると良い、こうあると良いというような思いが段々出来てくる。同時に我欲、そういうことを捨てるということ。我情我欲を捨てた姿が和賀心だということが言えます。
今日私は石橋先生のことを聞いて頂いたのですがね、例えば正義さんの言われるところ
の、お参りをさせて頂かなかったら、信心のない者と同じようになるということは、信心はしておっても、信心の充実した生活が出来ないことだろうと思います。
そこでお参りさせて頂いてお話を頂くと、その教えが今日一日の支えになる。それが今日一日の私の信心生活の指針になる。そこに今日一日を充実した生活が出来るということになる。そういう充実した時、自分の心が信心で、信心の教えが、または信心の喜びが、私の心の中に充満して充実した時、もう絶対に出過ぎんで済むだろうと思うです。または引っ込み過ぎんで済むだろうと思いますね。 私は石橋先生のそのことからそれを感じます。ああ成程石橋先生という方は、そういう充実した日々を送っておられたであろうと思われます。それは性格的に出過ぎたり、いわゆる積極的だったり、消極的だったりする人はあります。けれども、それとは別のようです。
信心で、本当に自分の心の中に信心の教えが、または信心の喜びが充実しておる時には、私自身がそれを思います。出過ぎんで済むのです。また引っ込み過ぎんで済むのです。消極的でもなければ、積極的でもない。丁度良い中間、そういう生き方をです、真の道と言い、そういう人を真の人だということなのです。
成程「石橋さんこそ真の人でしょう」とおっしゃった。ですから、私共はそういう人を目指さして頂いておるわけなのです。しかもその真の人とは、只人柄が良か、人物が良かというのは、正義さんの信心の抜きにした、いくら性格的にはおとなしいとか、忠実とかと言うても、もうそれは役に立たないということ。
それがどういう性格の人であっても、信心を頂かしてもろうて、信心の喜びが自分の心に一杯充実しておる時こそ、和賀心であり、同時に出過ぎもしない、引っ込み過ぎもしないで済むということになる。してみると、そういう生き方の人を、真の人ということになる。
お互い信心の稽古をさして頂くことは、結局真の道を分からしてもらい、真の人を目指さして頂くのです。そういう心に、いわゆるおかげが動いてくるものでなければ、また本当なものでないことになって参ります。
金光様の御信心は絶対有難いと、自分の心が和賀心になってくると、もうこれはいやと言うてもこれはおかげが伴うてくる仕組みになっておるのですからね。おかげが伴うて来んなり、有難い有難いと言いよるのは、だから空念仏的なことになるのですから、お互い心掛けねばなりません。心の底から充実したおかげの頂けれる、おかげが頂けれるから朝参りしているんだということになってくる時です、朝参りが大変に有難い、尊いことになってくるのではないでしょうか。
今申しました、まだ一月参ってきたばかりの人がです、もう本当に死のうか生きろうかと悩みを持っておる人が、お話しして頂いておる間に、命を生き延びた一月間、それは例え何時間かでも心が安らぐ。そして、その苦しみからいくらか楽になる。只お参りしただけ、お届けしただけ、言うならお話を聞いただけならそれである。 けれどもその人がです、何か私が言うておるのが、何かこう雲の上の人が言うておるような頂き方をしておら
れるわけです。「先生はあげん言いなさるばってん、そげなわけには行かん」。言うなら聞いておるのがそれである。だから私が言いよることが難しいことであるのか、難しいことでなか、本気で一言づつからでも良かから、それを身に付けて行くと言う信心。そこから一日充実した心になってくるのです。
その心が真の道に通じ、真の心に通じ、真の人にならして頂く秘術を教えるわけなのです。そして私の例えば、私の充実した心の状態をです、充実した心の状態の時には、自分が出過ぎんでも、引っ込み過ぎんで良いところに焦点を合わせて頂きながらです、信心の稽古をさして頂く。楽しいことです。有難いことです。なかなかそれは完璧ということは出来ません。私共にも出来ません。
けど、そこに焦点を合わせて行きながらです、足りないところを詫びて行き、出来たところは「有難い」とお礼を申し上げて行く生活に入らせて頂くならです、人を殺すどころか、傷つけるどころか、必ずそういう心の状態のその人の傍におっただけで、暗い心の人は明るい心の人になるでしょう。傷ついた心を持った人は、そういう信心の喜びで充実した人の前におるだけでも、心が安らぐでしょう、傷が癒えるでしょう、死んどるのが甦るでしょう。そういう働きを、信心の喜びが充実した心の中には、そういう内容を持っておる。傷を癒す、いわゆる死んどる者でも甦る程しのものを持っておる。
そこで形の上で人を殺すということは、人を傷つけたりすることは、お上があって、それぞれにお仕置きに遭うのですから、それはそれでまあ帳消しになる感じが致しますね。けれども心で傷つけたり、心で殺すのは絶対その人がいよいよ、神様からお仕置きを受けんならんです。今苦しんでおる人は、今お仕置きを受けとる時と思わにゃいかんです。悩み苦しんでおる人、本当に暗い心の人が、今でも監獄に神様から入れられておるんだと思わにゃいかんです。
ですから、そういう罪の償いをさせられている時ですから、やれ痛や今みかげをと言う心。言うなら、痛いです。今神様からそういう責めの苦と、分かりやすく言うなら、罰かぶっとる時なんだから今。ですから、その罰かぶっとる時とはどうい時かというと、いわゆる罪の償いが出来とる時だから、苦痛はございます。苦しゅうはございます。けど、今こそめぐりのお取り払いを頂いておる時でありますから、お礼を申し上げねばならんということになるでしょう。
そこで、やれ痛や、今みかげをと言う心になれよ。苦しゅうございます、けれども、今そういう罪業が外れて行っとる時ですから、有難いということになる。本当に悩み苦しむなら、今こそ神様が見通しに見てござる、聞き通しに聞いてござる神様がです、からのお仕置きを受けておる時と思うてお礼申し上げて行く心になるうちに、段々楽になってくる。楽になってくるだけでなくて、いわゆる真の道が分かるようになり、真の人にならせて頂くようになり、教えが心の中に充満して、有難い勿体ないの心の状態で、生活が出来るようになる。それを目指す。
そうなってしまわなければおかげが頂かれんというのじゃない、それを目指すというこ
となんです。それを目指さずに、それこそ千里の道も一歩からと行じずして、おかげの頂かれるはずはありません。それこそ聞いとるだけじゃ出来ん。拝んだだけじゃ出来ん。
そこで一年なら一年の間の信心を振り返った時、自分の変わり果てていっておる、自分が楽しゅうなる、有難うなる。自分の周囲は一つも変わらなくても、自分が変わって行きよる、それが有難うなってくるのが信心。
親鸞上人を殺そうとした傳円が、お徳に平伏して弟子入りをした。こういう信心を頂いたことが有難い、有難い生活になってきた。ある日師匠の帰りを出迎えにいった時に、丁度何年前に師匠を狙った場所まで来た時、それこそ感涙にむせびながら、[この道も 山も昔と変わらねど 変わり果てたる わが心かな]と言う謡を詠んで感涙にむせんだという話があります。変わり果てなければいけません、人間が。それが山も道も一つも変わりはしません。けど自分の心がそう変わり果てて行くところに、信心の楽しみがなからなければ嘘です。
今日は人を殺すとか、傷つけるということではない、もうそこは一線上に出て、私共がね、むしろ私共が傷ついておる人を、または心がもう死んだも同様になっておる人の心を生かすことのために、私共が、今日私が申しましたようなところに焦点を置いて、成程お参りするのとしないのとは、このようにも違うというところをはっきりと分からせて頂くところまで、信心を高めて行きたいと思いますね。
「心で殺すのが重い罪ぞ」と。心で助けるということは、だから重い報償を受けられるということじゃないでしょうが、ね、反対なんです。神様は重い罪の方だけを【】りなさるということではないのです。それを反対のことになってくればです、例えば人間の世界でも、人命救助なんかやっぱり賞状もらったり、金一封もらったりするものです。神様が下さるものはそんなものじゃありません。本当に有難い、これが御神徳かというお徳を受けて行けれるのです。 もうこれから先の世界は、いよいよもう筆舌には尽くされない世界です。有難い、勿体ないという生活、そういうおかげこそがね、神様が願っておられるのであり、私共も願うなら、そこを願わしてもらう。あの世にも持って行ける、この世にも残しておけるという程しのものを頂くために、もうここんところをお互い卒業したとして、今日反対に、殺すのではない、傷つけるのではない、助かってもらえる程しの心を、今日は精進さして頂くことを聞いて頂いたですね。どうぞ。